目に見えない戦争の傷跡はある意味で肉体の負傷よりも悲惨なものかも知れません。
勝者も敗者も関係なく、精神のトラウマは皆共通するもの。
その中からいかにして希望を持てるか、それを考えさせる深い作品です。
序盤の終戦直後のレニングラードの様子、イーヤとパーシュカが暮らすアパートでの生活描写の解像度の高さにまず心を奪われました。しかし戦友のマーシャがアパートにやってきてからの全てのシーンに強い緊張感を感じ圧倒されていきます。耐え難い圧迫感。この二人に心の安らぐ時はいつかきてくれるのか、祈るようにみている自分がいました。
戦争で受けた傷や自らの罪は癒えるのか、赦されるのか。安易に答えさせてくれない映画だ。僕はそれでも生きていたほうが良いと言いたいが、どんな顔をして言えば良いのだろう。世界ではまさにこの瞬間にも傷と罪が作り出されている。
壊れた精神、歪みゆく心。
それでも「戦後」を生きる女二人。
戦闘シーンでは描けない戦争の姿を観た。
フェルメールの絵画を思わせるような美しさ! バラーゴフ監督が描きたかったのは、戦争のリアルでも生活の苦しさでもなく、トラウマを抱えた女たちのドラマである
戦争は、戦後もずっと存在している。生き残ることは、終わりのない苦難を受け入れることだ。命を抱えてもがく姿に、人間の強さと希望を感じた。
戦争は戦場だけで起きているのではない。
100人いれば100通りの苦しみや哀しみに満ちた人生が続くのだ。
それは今まさに私たちが目の当たりにしていることでもある。
予測不能な女性ふたりの振る舞いは、戦争によって奪われた感情を取り戻す闘いだ。戦争は肉体と感情を破壊する。全身全霊をかけてその修復に挑むふたりの姿が永遠に心に刻まれる。傑作。
これは戦争映画であり、トラウマを巡って結ばれうる元兵士の女ふたりによるクィア映画でもある。
女の顔に戦争の惨さが刻印され、血と生の物語が赤と緑のミザンセーヌに仮託された絵画のような照明と色彩は『燃ゆる女の肖像』も想わせる。
戦争は生死を理不尽にもてあそぶ。癒えない傷に日々苦しみながら、それでも生きる希望を探し求めるイーヤとマーシャ。
今なお同じ運命をたどる人々を思うと苦しくてたまらない。戦争は絶対悪である。